金古 氏のブログサイトアンリ・ダルトワの生涯
こんな一生を送っていたんですね。
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アンリは、シャルル10世の次男ベリー公シャルル・フェルディナンと両シチリア王家のマリー・カロリーヌの間に生まれた。父にあたるベリー公は、アンリが生まれる7ヶ月前に暗殺され、直系の男子が途絶えると危惧された矢先に誕生したため、アンリは「奇跡の子」ともてはやされた。彼は誕生から祖父の譲位まではボルドー公の称号を持ち、亡命中に、シャンボール城にちなんだ儀礼的称号「シャンボール伯」を名乗った。
七月革命と祖父からの譲位
1830年8月2日にシャルル10世はアンリのために王位を譲った。次の王位は本来シャルル10世の長男アングレーム公ルイ・アントワーヌ(「ルイ19世」)が継ぐべきであったのだが、アングレーム公は父シャルル同様不人気な上に子供がいなかったため、すぐさま甥であるアンリへの譲位に賛同する連署を行わなければならなかった。その時以降、アンリの支持者たちは彼を「アンリ5世」と呼んだ。しかし、議会は王位継承者としてブルボン家傍系、オルレアン家のルイ・フィリップを指名した。こうして「アンリ5世」の即位は立ち消えとなったのである。
ブルボン家は同年8月16日に亡命することとなった。1832年にはアンリの母マリー・カロリーヌがフランス西部で反乱を扇動しようとしたが、失敗に終わった。
[編集] 変動するフランス政体と王政復古運動
1836年に祖父シャルルが没し、1844年に伯父ルイ・アントワーヌが没すると、アンリはブルボン家の長となった。「アンリ5世」の戴冠を目指すレジティミストたちは、七月王政期、第二共和政期、第二帝政期を通じて、常に政権の対抗軸であり続けた。
1871年に、普仏戦争敗戦を受けて第二帝政が崩壊した。オットー・フォン・ビスマルクは、フランクフルト条約の交渉の下地づくりとして選挙を行わせた。この時の選挙では王党派が議会の多数を占めたが、レジティミストとオルレアニスト(オルレアン家支持者)に二分されていた。しかしながら、この議会での王政復古を実現するために両派で交渉が行われた結果、シャンボール伯アンリが、オルレアン家のパリ伯フィリップ・ドルレアン(ルイ・フィリップ王の孫)よりも継承順位が上位であるという合意がなされた。ただしこの時点で、オルレアニストと一部のレジティミストの間では、妻マリー・テレーズ・ド・モデーヌとの間に子のいないアンリの後継者問題も認識されてはいた。
引用『ウィキペディア(Wikipedia)』